金城哲夫資料館

金城哲夫について

金城哲夫は昭和13年(1938年)生まれの作家・脚本家です。現在の松風苑の代表者・料理長の実父でもあります。
東京の円谷プロで企画文芸室長を務め、初期ウルトラシリーズの制作で重要な役割を担ったことから、ウルトラマン生みの親の一人と呼ばれています。昭和44年(1969年)に沖縄へ帰郷してからも、沖縄芝居の脚本や演出、テレビ・ラジオの司会、沖縄国際海洋博の開会式・閉会式の企画など、多方面で活動しました。
周囲から更なる活躍が期待されていましたが、昭和51年(1976年)、37歳のときに事故のため永眠しました。

資料館のご案内

金城哲夫の没後、東京時代・沖縄時代の関係者やファンの方々が生前の書斎を訪ねてくださることが多くなりました。松風苑では、故人を偲び功績を伝える場を残すため、書斎を「金城哲夫資料館」として保存することになりました。
書斎としていたのは、実家である松風苑の離れの2階です。執筆のために使っていた机・本棚・書籍などがそのまま残されています。円谷プロ時代の台本、沖縄芝居の資料をはじめ、多くの資料も展示されています。資料館を訪ねた制作スタッフや役者などのサインのほか、ファンによる寄せ書きなどもあります。
古い建物のため階段の付け替えなど改修を重ねながらも、当時の姿を保ち続けています。

日本のアニメ聖地88

平成30年(2018年)、一般社団法人アニメツーリズム協会によって『訪れてみたい日本のアニメ聖地88』の一つに認定されました。その後も毎年認定が更新されています。(2022年現在)
アニメ聖地88の認定証と御朱印は、松風苑本館に展示されています。訪問の記念として御朱印を押したい方は、松風苑のスタッフにお申し付けください。

https://animetourism88.com/ja/88AnimeSpot/ultraman_haebaru

見学お申し込み

常時公開施設でないので、あらかじめ電話またはメールでご予約ください。
※担当者が不在の場合は対応できかねる場合があります。

名称
金城哲夫資料館
所在地
沖縄県島尻町南風原町字津嘉山1384 松風苑内
電話番号
098-889-3471
営業時間
11:30~17:00(要予約)
年中無休(但し12月31日と1月1日お昼の営業はお休みとさせていただきます)
料金
無料
駐車場
有り

メールでのお申し込み

    お名前

    電話番号
    (半角英数字)

    メールアドレス
    (半角英数字)

    人数

    希望日

    時間

    • 時間時~

    • 時間時~

    連絡事項があれば、
    ご記入ください。

    ※見学お申し込みについては「仮予約」となります。日時や内容を確認して、松風苑よりメールまたは電話でお返事さしあげることで「本予約」となります。

    ※セキュリティの関係で一部のメールが届かない場合がございます。お申し込み後に1日過ぎても当苑からのメール連絡がないようなら、お手数かけますが念のため電話でご確認ください。

    This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.

    金城哲夫年表

    1938年

    7月5日、東京にて出生。中学までは実家のある沖縄で過ごす。

    1955年 17歳

    中学卒業と同時に上京し、玉川学園高等部入学。
    学生時代から特撮の神様といわれた円谷英二特技監督の主催する円谷特技研究所に参加。
    東宝の特撮映画等の脚本で知られる関沢新一氏に師事する。

    1961年 23歳

    玉川大学卒業。

    1962年 24歳

    TBSのドラマ『純愛』シリーズ「絆」(監督・円谷一)でシナリオ作家デビューをする。
    一旦帰沖し、沖縄の役者を使って映画『吉屋チルー物語』を自主制作(脚本・監督)する。

    <放送作品> テレビドラマ『純愛シリーズ』「絆」(脚本)…東京放送

    1963年 25歳

    4月に正式発足した円谷プロダクションの企画文芸室長となり同プロに在籍しながら、ドラマ『沖縄物語』の パイロット版製作のため帰沖する。

    <放送作品>テレビシリーズ『沖縄物語』三部作の製作(灘千造氏と共同、未放送)
    <上映作品>自主映画『吉屋チルー物語』(製作・脚本・監督)…沖縄映画制作所

    1964年 26歳

    『いまに見ておれ』の共同脚本などの仕事を手がける。(ここで金城は関沢氏の次に脚本の師と仰ぐ生田直親氏と出会い、出演者の青島幸男氏とも懇意になる)

    フジテレビ・円谷プロ共同制作の『WoO』の企画立案に参加。同作品は諸事情で頓挫するも、同年にTBS・円谷プロ制作の『アンバランス』(後の『ウルトラQ』)に円谷プロ側の企画者として参加。脚本も数本手がける。

    <放送作品>
    テレビドラマ『月曜日の男』「ペン先のレクイエム(鎮魂歌)」(脚本)…東京放送
    テレビドラマ『こんなに愛して』(生田直親氏と共同脚本)…東京放送
    テレビ映画『いまに見ておれ』シリーズ(脚本)…東京放送、国際放映

    1966年 28歳

    1月に『ウルトラQ』放映後、『ウルトラマン』の企画・脚本、『快獣ブースカ』の構成・脚本、松竹版『泣いてたまるか』の脚本他、シートドラマの脚本を担当、当時のバラエティ番組にもゲスト出演した。

    <放送作品>
    テレビ映画『ウルトラQ』(脚本)…東京放送、円谷プロ
    テレビ映画『ウルトラマン』(脚本)…東京放送、円谷プロ

    1967年 29歳

    <放送作品>
    テレビ映画『泣いてたまるか』「翼あれば」(脚本)…東京放送、松竹テレビ部
    テレビ映画『快獣ブースカ』(脚本)…日本テレビ、円谷プロ、東宝
    テレビ映画『ウルトラセブン』(脚本)…東京放送、円谷プロ

    1968年 30歳

    <放送作品>
    テレビ映画『マイティジャック』「爆破指令」(脚本)…フジテレビ、円谷プロ
    テレビ映画『戦え!マイティジャック』(脚本)…フジテレビ、円谷プロ
    テレビ映画『怪奇大作戦』(脚本、主題歌作詞)…東京放送、円谷プロ

    1969年 31歳

    円谷プロを退社して、故郷に戻った金城哲夫は、実家の鋤焼き料亭を手伝いながら若き尚巴志を主人公にした『佐敷の暴れん坊』をはじめとした数本の沖縄芝居の脚本を執筆した。また、琉球放送(RBC)にて、ラジオやテレビ番組の構成も担当し同時にキャスターとしても活躍した。

    <上演作品> 沖縄芝居『佐敷の暴れん坊』(脚本、演出)…那覇劇場(初演)

    1970年 32歳

    <放送作品> テレビ映画『帰ってきたウルトラマン』「毒ガス怪獣出現」(脚本)…東京放送、円谷プロ

    1971年 33歳

    <上演作品> 沖縄芝居『一人豊見城』(脚本、演出)…那覇市民会館(初演)

    1972年 34歳

    <上演作品> 沖縄芝居『泊気質ハーリー異聞』(脚本、演出)…琉球新報ホール(初演)
    <上演作品> 沖縄芝居『風雲!琉球処分前夜』(脚本、演出)…琉球新報ホール(初演)

    1973年 35歳

    沖縄のラジオ番組の司会に多数出演の他ラジオドラマの脚本も手掛ける。 また、東宝映画用のシノプシスを共同執筆した(実現せず)。

    1974年 36歳

    テレビドラマ『走れ!ケー100』(C.A.L製作)「沖縄の巻三部作」の現地コーディネーターおよび出演した。

    <上演作品> 沖縄芝居『虎!北へ走る』(脚本、演出)…琉球新報ホール(初演)

    1975年 37歳

    東宝より依頼を受けて、沖縄国際海洋博覧会の式典の演出や沖縄館で上映される映画にも携わり、広報としてテレビ番組「11PM」などへも出演した。

    <上演作品> 沖縄芝居『王女(うみないび)の恋』(脚本)…那覇市民会館(初演)
    <上映作品> 沖縄海洋博・沖縄館映画『かりゆしの島沖縄』(監督/吉田憲二、脚本/助監督・金城)

    1976年

    2月26日、不慮の事故にて37歳の若さで他界。内地でも当時の新聞やテレビ雑誌にて報じられ、日本中のファンから、その早過ぎる死が惜しまれた。

    2006年

    <放送作品>ハイビジョンテレビ映画『生物彗星WoO』(円谷英二と共同にての原案)…NHK、円谷プロ

    南風原町観光協会「金城哲夫WEB資料館」より

    Translate »